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2007年9月28日 (金)

求めるものはフラットな目線

すぐに更新です。

前回の記事に続いて“悩み”という言葉関連でひとつ、ここを読んでくださる方に伝えたいことがあります。

非常に真剣に、包み隠さず言います。

私の兄の話は、5月だったか愛について考えた日記の中でしました。

その兄にもまぁ関係することです。

*

以前、TVで、身体障害を持つミュージシャンについて、親子愛がテーマであるだろうミニドキュメントがワイドショーで組まれていました。

それが流れた後であるコメンテーターが言った事。私には、どうも腑に落ちませんでした。内容はこうです(一部改めました)。

「この方から何を受け取るかというと、私たちは五体満足なのに、この方に比べればなんて小さなことで悩んでるんだ、という事だ。」

わかる気はします。わかる気はするのですが、どうも・・・。

*

私は、兄を重度の障害を抱えた人間だとは思いますが、不自由・不幸な人間だとは思っていません。

問題なのは、「障害者」という言葉はなんなのか、という事です。

よく考えてもみてください、人生において、障害を抱えたことのない人間はいるでしょうか。まあ、たまにない方もいらっしゃるかもしれませんが。

だから、私も極端な話、障害者なのです。兄は一生をもってしても超えられない障害を人より多く抱えているだけだということなのです。(“だけ”と言っても、彼の持つ障害を軽くみているわけではありません。)

そして、彼は、私と同様、彼のできる範囲で、自由を生き、幸せに生きているはずです。(もし、彼が不幸である、不自由である、と思っているなら、私はそうだったんだ、ごめんね、と謝るしかないのですが)

ですから、私がまだ小さい頃、傍にいる兄を見た知らないおばさんが、かわいそうね、などと言うのがどれほど嫌だったか。

それと、先程のコメンテーターの話は少しですが、似ているのです。

*

どういう事かというと、優しい差別なのです。

思いやりの心や、痛みに同情できる心が、反対に、気づきにくい差別を生んでしまっている、と思うのです。

コメンテーターの話で言えば、「あの方に比べればなんてことない」という、比べても仕方のない「悩み」の深さを比べてしまうこと、「かわいそうね」と言ったおばさんの話で言えば、人の「生」を自分の尺度で、測ってしまっていること・・・。これは、残念ながら実は「障害者」を自分と同じ「人」として見なしてはいないと非常に近いことなのです。

「障害者」の事を差別するまいと思うばかりに、自分より尊い人であるとみたり、反対にすごく弱い人間にみたりしている方はよくいらっしゃいます。

きっと、きっとこうです。

「障害者」は悪い意味でも良い意味でも特別扱いされる事を望んでいるわけではありません。「普通」の人間であるために“ちょうど良い敬いの心”が何より必要なのです。

どうでしょう、私とあなたと同じでしょう?

*

話はコメンテーターの発言に戻ります。

この方の本当に言うべきだったことは。

「この親子の愛はどうこうだ。そして、この方の音楽性もどうこうだ。」

フラットな目線で人と対峙する事が、何より、大切だと思うのです。

ちなみに、私は、そのミュージシャンが「障害」の話を抜きに音楽性で話題に上るようになったら一番良いなと思っています。

みなさんこの折に、何かの縁だと思って、色々考えてみてください。

*

さて、前回の日記は申し訳ありませんでした、本当になんだか心配だけさせてしまって(汗)ありがたいコメントをいただいたので、消す予定でしたが、そのまま、残しておこうと思います。

でも、相当エネルギーを使いますね、悩むのも(汗)

いや、悩みはないと思っているとちょっと前の日記に書いた後、本当に悩みはないのかとある方に聞かれて、どうなんだろう、と考えてたら、意外と長いこと悩んできてることがあったんだなぁと、自覚していなかった悩みが浮き彫りになってきて、結局前回の日記のようになっちゃったんですが(汗)相当ネガティブシンキング向きな人間です(汗)

もちろん悩みは未だ解決していません。そう簡単には解きほぐれてはくれないみたいです。これは、人間関係の問題というより、自分の中でどれほど、自分を受け入れられるようになるかが、鍵のようです。しかも、その鍵を探すにも、幾重にも前を阻む扉を開けていかなけねばならず、また、そのいくつもの扉にも鍵が必要なようです。その在り処を、まだ私は知りません。でも、探します。それでしか、前に進めないから・・・。

変わりたいと本気で思っていない自分がいるのも事実とコメントに書きましたが、でもよくよく考えてみると、やっぱり、その自分が置いてけぼりにならない程度に進まねばならないのです。大げさに言えば、19の私のままで、私はこれ以上何も得ないで人生を終えることになってしまう。それは嫌です。

ですから、自分で、探します。自分で探し当てて、自分を作り上げて行きたいと思っています。一歩ずつ、逸ることなく・・・。

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コメント

 
 精神薄弱 て今でも言うんですか、解かりませんが、自分の親戚にもいます。

仕事で毎日通る道、時間に 〇〇養護学校のバスが止まり、生徒さん達が乗り込みます。

表現はおかしいですが、微笑ましい風景です。

生徒さん達も先生方も、良い笑顔をしています。
その道の反対側には、昨夜呑みすぎたのか、朝、嫌な事でもあったのか、額にシワをよらせて世話しなく歩いている人達。
少なくとも自分の目には、バスに乗り込んだ方の方が、 「楽しそう! 生きてる!」
と映りました。


人は 「可哀想~。」と言います。

家族は、手がかかりますが(面倒がかかる とは言いません) はたして本人達は?

  これも、【個性】なんですよね。

以前、TVで内外の優れた芸術・美術を持ったダウン症・盲目 etc・・ を抱えた方達の見事な作品を紹介していました。
はたして、この方々が何も障害を持って生まれなければこの優れた人を感動させる物が生まれただうか??

 健聴者  障害者

誰が決めた言葉なのか?

バリア・フリー・ フラットで見方を変えたいですね。 

投稿: GON | 2007年9月28日 (金) 20時08分

>> GONさん

コメントありがとうございます。
そうでしたか、私も小さいとき、養護学校の送迎バスの停留所に母にくっついていったりしたのをおぼろげながら覚えています。
そこに、確かに辛い顔はありませんね。
みんな学校に行くのが嬉しそうです。

>これも、【個性】なんですよね。

う~ん、これをおっしゃる方結構いらっしゃるのですが・・・。
生意気にも申しますと、周りが、「障害は個性」とまで言わなくても良いと思いますよ。
本人が、決める事だと思うのです。
本人が、個性と思っていれば、それは個性であるし、障害であるとおもっているのであれば、それは障害です。
障害を美化して考える必要はないと思います。
ここにも「フラットな目線」です。

詳しく申しますと
障害という言葉が悪いことである、と気にしすぎる必要もないのではないか、ということなのです。(いわゆる「障害者」の人の中にも、こういう風に障害=変に特別で「普通」からすれば嫌な事、という図式に囚われて悩んでいる人がいます。)
本文で「極端な話、私も障害者である」と言っているのもその思いからです。


>はたして、この方々が何も障害を持って生まれなければこの優れた人を感動させる物が生まれただろうか??

もうひとつ、生意気を申します(汗)

その人々は障害を携えて生まれてきたから、その才能が発揮されているという表現ではなく、その人がその人であるから、その才能がより発揮されているという表現はいかがでしょうか?
個人として見る事が、やっぱりGONさんのおっしゃる“バリア・フリー,フラット”の一歩ではないでしょうか・・・?

本当に生意気に揚げ足取りで申し訳ありません(大汗)

投稿: Mr.歌姫 | 2007年9月28日 (金) 22時54分

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